太陽の蓋

  • 160810(水)#B @中洲大洋劇場
    • 福島の原発事故の数日を中心に淡々と描いていく映画。福島の住民の視点も出てくるが、官邸の対策本部を中心に描いている。原発の事故のシーンはおそらくニュース映像を用いており、あの日あの時テレビで見ていたことを思いだす。いたずらに派手でなく淡々と事実を積んでいく感じが逆に不安をかき立て、原発の恐ろしさが心に湧いてくる。
    • この事故が内閣の対応が悪いとか単純な理由に帰結できない事態であったことを冷静に描いているのがよかった。「国民はみたいものしかみない(うろ覚え)」といった台詞があったが、同様に人は単純な原因論に飛びつき、スケープゴートを作って片付けようとするところがあるのではないかと思った。
    • 政府や閣僚、福島の住民、東京の住民、原発の現場作業員、それぞれにそれなりのアイデンティファイすることができながらみることが出来たが、それが一番難しかったのが、東電本店の上層部だった。非協力的な隠蔽体質。否、このように書きながら、やはり自分の中にもそのような気持ちはない訳ではないと思う。みながら自分の中の心の様々な側面に光が当たる気がした。
    • 対応にあたった政府側の人物が「とにかく欲しい情報が全くといっていいほど対策本部に入ってこなかった」という語りに対して、新聞記者が語った「情報があってもどうにもならない怪物なのではないか」という台詞が印象的だった。奇しくもゴジラが公開されているが、原発はバランスが崩れれば制御不能な怪物のようなものなのだろう。この事故への対応にあたった内閣はスケープゴートになってしまった。では、違う内閣ならましな対応ができたのかと考えると、そんな事態でもなかったのではないかと思う。責任が問われるとすれば、このようなリスクの高いものを政策的に推進してきた(そしてまたしつつある)党、政府、原発のメリットのみをみて、デメリットや危険性を意識的に低く見積もった私たち1人1人にある気がする。最後のシーンが象徴的だった。「原子力で作る新しい町作り(うるおぼえ)」と書かれた町の門には放射能汚染地域にて立ち入り禁止を示すバリケードがくまれて、無人の商店街が広がっている。
    • この映画をみることで私は当時のことをビビットの思いだした。映像としてだけでなく、あの時に感じた「ひょっとしたら日本は住めなくなるのではないか」という恐怖をはじめとする様々な気持ち。しかし、思いだしたということは、自分の中では風化しつつあるということでもある気がした。この事故は福島では(日本で)現在も現実に続いていること。放射能の問題も決して過去のものではない。現在においても問題なのだ。リスクの高いものがまた動き始めている。国民の記憶の風化に乗じて、あの時、運良く(運悪く)与党ではなかった、ずっと原発を推進してきた党によって。この映画は「国民にみなければいけないもの」を訴えかけるなかなか社会派な映画だった。しかし、上映館は今のところ全国でも片手の指くらい。こういう事態も何かもどかしさを感じる。
    • この事故の危機はまだ現実としてそこにあるのだ。人間は目の前に危機が見えなくなれば容易に記憶を風化させてしまったり、保身にかまっているような事態ではなくても、保身に走ってしまったりと、心の中にどろどろしたものがいる。誰の心の中にも。そんなことを突きつけてくる作り物のホラーよりもよっぽど怖い映画である。
    • 久々にまじめなリビューでした。昨日の「野生のなまはげ」も今日の「太陽の蓋」も同じ中洲大洋劇場。硬軟織り交ぜて大手ではかからないような映画を掛けてくれて好印象。私が福岡にいた頃は割と大衆受けするものがかかっていた気がするのだけど、かかる映画の傾向がちょっと変わってきたのかなあ。何にせよ、この方向性は支持します。KBCシネマと共に福岡の映画文化を支えてくれるいい場所になってると思います。
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